建築設計にたずさわるものとして、当然私は視覚 型の人間と思い込んでいた。ところが近年、自分 はどうも聴覚型の人間ではないかと思えてきた。 私は音楽を聴いている時の方が、絵画や彫刻の視 覚芸術を観る時より感興が持続し、精神レベルが より深く高まるようである。 なぜそうなのか、と考えることは建築空間を別の 角度から考えることにもなるのではないかと思い 、ここに記述してみる。 まず聴覚型と視覚型の空間に対する関係は、進化 生物学者リチャード・ドーキンスのアナロジーが わかりやすい。ドーキンスの説によると、聴覚型 の最たる生物にコウモリがいる。コウモリは超音 波のクリック音を発し、そのエコーで空間を探査 する。またウルフ・ホイッスル音(音程が急に下 がる)を発し、そのドップラー効果により相対速 度を知る。第二次大戦時の最新軍事技術、レーダ ーやソナーのテクノロジーを、コウモリたちは れわれの祖先が木から降りたころより数百万年前 に、開発したのだ! この驚異的技術によりコウモリは聴くことで、 われわれが視るように、空間を認知する。われわ れが色と呼んでいるのも光の波長の違いであるか ら、音の波長の違いでコウモリは極彩色を感じて |
いるのかもしれない。 一方、もしコウモリに学識があるとすれば視覚型 生物に驚異を覚えるであろう。ヒトという、コウ モリに比べればほとんど聴く能力のない生物が、 “光”線を利用するための“眼”という高度に特 殊化した器官で光のエコーを視ることによって、 われわれコウモリが聴くように、空間を知るとは 何と驚異なることかと。 このドーキンスのアナロジーに対し私もアナロジ ーをたててみる。 それは空間を、聴くようにして、視ることはでき ないかということである。 そこで視覚と聴覚では何が著しく異なるかと考え ると、それは時間知覚、時間感覚ではないかとお もう。 われわれヒトはほとんど視覚の動物といってよい。 その視覚器官があまりにも良くできているため、 時間知覚をさほど必要としなくても外界のかなり の状況を知ることができる。そのため、時間感覚 による精神的高度な歓びは、聴覚による音楽に譲 ることとなる。 ゆえに“音楽は他の全ての芸術から嫉妬される” ともいわれている。一方、ゲーテは“建築は凍れ る音楽である”と称したとか、薬師寺の東塔は、 |
しばしば”美しき凍れる音楽”と賞賛される。 しかしそこに音楽という言葉がでてくるというこ とは、視覚による形からリズムや旋律の時間感覚 を感じとっているからであろう。 古来から建築には、ロマネスク修道院の回廊、 ゴシック建築のフライイングバットレス、日本の 寺院や城郭の幾重にも重なる屋根、武家屋敷の 雁行する渡り廊下や広縁、集落に見られる、各戸 のフラクタルな自己相似の繰り返しによる自己組 織的な集合等にはその時間感覚が含まれていて、 われわれの無意識下の心に響いていたのである。 現代の建築、フランク・ロイド・ライトの建築に も列柱や装飾等の自己相似の繰り返し、ヨルン・ ウッツオンがデザインしたシドニーオペラハウス にも帆船の帆に似たシェル屋根の自己相似の繰り 返し、アントニオ・ガウデイのサグラダファミリ ア教会の円塔や装飾の自己相似の繰り返し、等 フラクタル造形の魅力、時空の魅力がある。 しかしその様な現代建築の事例は全体的には多く ない。特に近年、技術の高度化と設計や施工の 合理化により、均一でのっぺりしたカーテン ウオールや画一的で単調な建築の面や輪郭が多く 見受けらる。そして本来建築に含まれている時間 感覚がますます失われてきている。 |