それは音楽ではなく、信号音や警告音のような 単調な機械音でしかない。 ワンスパンだけ高密度設計で、後は以下同文、 連続繰り返しの単調な形では本来建築の魅力の 一つであるリズム感や躍動感が失われてしまう。 これはテクノロジーに頼ったデザイナーの手抜 き、テクノロジーの誇示にすぎないのではないだ ろうか。だから私はこれらの建築を蔑称して、 “ツルペタノッペリ金太郎飴建築”とよんでいる。 少なくとも私の手がける建築は、本来内在する 時間感覚による歓び、時空の魅力を含ませたい。 それには時間上の変化、つまり運動がなければな らない。といっても建築が電動モーターで回転す るような遊園地的なものではなく、エレクトロニ クスによって照明が変化して見え方が変わるよう なネオンサイン的なものでもない。 その運動とは建築空間を味わう人間自身の運動、 人の移動によるアングルの変化、目線の変化 (眼球の運動)、注目点の変化(眼の焦点や脳の 神経集中方向の変化)である。しかしながらそれ らの変化は視覚器官の補正機能があまりにも良く できているため、われわれの認識の無意識下にあ |
る。ここで視覚性能を少し落として(祖視化)、 もし建築を単眼の望遠鏡で視たら、あるいは ビデオカメラで撮って視たら建築はどのように 感じられるかということで考えるのは、なかな か有効な方法ではないかと思う。 一方対象となる建築を変化として感じるには、 その形に切れ目やうねりや揺らぎがなければなら ない。またその変化は反復性や反転性や周期性や 数列性のようなある程度の秩序がなければならな い。 そこではじめて時間軸上に単位が生じ、ヒトは 時間知覚を得る。それでもヒトは時間知覚が苦手 であるから、空間を構成する素材や色彩は種類を 吟味、少種化し、主題となる形、モチーフは単純 化したものでなければならない。逆にその方が 多様な組み合わせ、多様な展開が可能になるので ある。 かくして建築空間は、視覚においても聴くように して、無意識下にリズムや旋律等の時間感覚を訴 え、人々の心を揺さぶり、精神の健全なる高揚を もたらすことであろう。 2000年 6月19日 篠崎好明 |